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大原麗子,晩年困窮で孤独死! 病気はギランバレー症候群に乳がん,うつも!

直撃!シンソウ坂上

孤独死した晩年は自宅売却も考える困窮ぶりだった?

ギランバレー症候群の再発、整形失敗や、うつ病、母親の看病。。。
仕事激減で仕事仲間から干された?

愛される女優、大原麗子はとても孤独だった?




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大原麗子,晩年困窮で孤独死!

2億5千万の自宅豪邸で孤独死

大原麗子さんが晩年住んでいた自宅は、
東京都世田谷区岡本にあるのではないかと言われています。

残念ながら、主の大原麗子さんは2009年に
死因、不整脈による脳内出血でこの自宅内で
亡くなっているところを実弟で、
大原麗子さんのマネージャーを務めていた
大原政光さんに発見されています。

2週間ほど前から連絡がつかないことを心配して
弟の政光さんが警察に連絡して警官と共に
自宅に到着。

するちいつもは開いていない扉が一か所開いており
そこから2階にかけあがると、
既に姉の大原麗子さんは亡くなっていました。

死後3日ほど経っていたようです。

亡くなった年齢は62歳と若いのですが、
後ほど紹介します、ギランバレー症候群やうつの症状によって
晩年は仕事をセーブした状態でした。

大原麗子さんが住んでいた自宅は、
世田谷区の閑静な住宅街の
約150坪の土地に、延べ床面積260平方メートルの南欧風2階建ての家、
一人で住むには十分すぎる広さ。

一軒家となれば、手入れも大変ですし
子供のいなかった大原麗子さんは、
後世に自宅を残す必要もありませんでした。

2億5千万と言われるこの自宅を売却し、
マンションに引っ越すことを考えていた矢先に
突然の死を迎え、しかも報道されたのは
『自宅豪邸での孤独死』

『春日局』で大河主演も果たしたあの大女優の
あまりに悲しい孤独死は衝撃でした。

あれからもう10年も経つんですね。

38歳の時に、インタビューを受けた大原麗子さんは
『いつも遺作の気持ちで毎回演じている、
悔いがないように』と話しています。

この頃から、孤独を感じていたのでしょうか。


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病気はギランバレー症候群に乳がん,うつも!

ギランバレー症候群と再発と整形失敗で仕事激減

大原麗子さんは29歳の時に
ギラン・バレー症候群を発症します。

《ギランバレー症候群とは?》
【概要】:ギラン・バレー症候群は、感染症やワクチン接種などをきっかけにして発症する神経疾患のひとつです。原因となるきっかけからおよそ1〜3週間後に、足に力が入りにくくなったり、しびれたりするなどの神経症状が現れます。症状を自覚する部位は下肢(足)に留まることなく、手や顔面、呼吸機能などにも影響が及ぶことがあります。
その結果、階段を上りにくい、食べ物を飲み込みにくい、呼吸が苦しいなどの症状を覚えることがあり、人工呼吸管理が必要になることもあります。
ギラン・バレー症候群は人口10万人あたり年間1〜2人ほどの発症数であると報告されており、年齢に関係なく発症します。
引用:メディカルノート

日本でも多くの有名人がギランバレー症候群ではないかと
言われています。

・芳根京子さん(中学生のとき、1年後に完治)

引用:https://ryohappy.com/9289.html

・安岡力也さん(58歳の時)


引用:https://showa-g.org/men/view/208

ギランバレー症候群は、再発はないと言われていますが
大原麗子さんは2度発症したと言われていますが
二度目は、思い込みだったのでは?という声もあります。

故人ですので、真相は分かりませんね。

再発したといわれるのは、53歳の時。
約1年間芸能活動を休止していますが、
信頼していた主治医がこの間に亡くなったようです。

そのことで、大原麗子さんはうつの症状に悩むようになったのです。

また同じころ、整形手術も受けています。
大原麗子さんは、綺麗な二重のイメージが強いですが
左目は一重なんだそうです。

それまではメイクで一重を二重にカバー出来ていたようですが
左右、目の印象が異なることをずっと気にしていたので
この療養中に目の整形手術を受けることを決意。

しかし、いわゆる『もぐり』と呼ばれる医者にかかったため
手術は失敗し、まぶたが腫れ上がってしまうのです。

この整形失敗が影響し、
主演が決まっていた映画『天城越え』(第二弾)を降板。

そのショックと、ギランバレー症候群とうつの症状。

次第に自宅に引きこもる生活を送るようになっていったようです。

乳がんや孤立した晩年

大原麗子さんは、47歳のときに乳がんの病気も経験しており
順調な芸能生活だけではなかったようです。

しかし、二度の結婚で子供を授かっても
(一度目は子宮外妊娠、二度目は仕事を優先するため産まない選択)
子供の母親になることはありませんでした。

また同時期に、大好きだった母親が高齢、
心臓弁膜症とリウマチを併発して車椅子生活のため
介護を必要とするようになり、
自身の体調の変化(乳がんも経験)と同時に
介護もしなければならず、
表舞台に登場することは極端に少なくなりました。

好感度の高いトップ女優でしたが、
華麗と共に、主役級の仕事のオファーも減ってきたようです。

しかし、気に入らない仕事や、脇役などは全て断り
また受けた仕事があっても、台詞が気に入らないと
監督などに台詞を変えてもらうように直談判したようです。

そんな完ぺき主義とも言える仕事への情熱がありながらも
望む仕事が出来ないもどかしさがあったと思います。

療養中に、大原麗子さんは
片っ端から知人や仕事関係者に長電話をかけたといいます。

「しっかり病気を治して、容姿も心も完全に女優に変身して復帰したい。いえ、必ず復帰するわ。そうね復帰はどんな形がいいかしら。やっぱりテレビドラマよね。山田太一先生が脚本を書いてくれると嬉しいんだけどな。それまでは、たとえ目の前に1億円積まれてもお断り。だって大切なファンを裏切ってしまうことになるでしょうから」

と復帰の強い意志を吐露しています。

このようなエピソードを聞くと、
仕事への強い希望と共に、
その一方でうつの症状の時は、頑なに心を閉ざしていたのでは?と
想像してしまいます。

大原麗子さんの葬儀の場で、
『私を5番目の妹にして』というほど仲が良かった
浅丘ルリ子さんは同じように「一方的な長電話」のエピソードを
弔辞で披露しています。

また大原麗子さんの後見人だった森光子さんも、
大原の晩年には縁を切っているようです。

芸能界の知人も、
マネージャーも家政婦も離れていく仲、
晩年まで大原麗子さんを支え続けたのは
大原麗子さんの最初の結婚相手だった渡瀬恒彦さんでした。

渡瀬恒彦さんは自身の主演ドラマ
「十津川警部シリーズ」(04年、TBS系)に
大原麗子さんをゲスト出演させています。

離婚しても共演シーンがOKという
俳優と女優はとても珍しいと思いますが
結果的に、これが大原麗子さんの遺作になったのです。

亡くなったのは8月3日。
冷房ナシの部屋で、死亡推定日から3日から経っているのに
不思議に腐敗臭はしなかったようです。

晩年の大原麗子さんを心身ともに支えようと
弟の政光さんは、当時勤めていた銀行を辞め、
マネージャーとして全身でサポートしていました。

療養中のため、仕事での送迎もなかったでしょうし
体調回復に努めてもらいたいと
過度な連絡も遠慮していたのではないでしょうか。

そんな矢先に、最愛の姉が豪邸内で孤独死をしていたなんて
弟政光さんはお辛かったでしょうね。

晩年の大原麗子さんは度重なる自身の病気と
母親の看病に加え、仕事が激変したことで
生活は苦しかったようです。

コレクションだった高価な絵画や骨とう品は全て換金し、
更に年金の受給を『繰り上げ受給』申請もしましたが
サラリーマンではない大原麗子さんは年金が少ないと
弁護士を伴い、社会保険事務所に抗議に行ったとも
報じられました。

倒れていた大原麗子さんは、手を携帯電話の方に
伸ばした状態で発見されたようです。

誰に電話をかけようとしたのか分かりませんが
その電話が倒れる前に繋がっていれば、、と
悔やまれますね。

葬儀には、元夫二人も列席したようです。

孤独死を遂げた、大原麗子さんの生活の面倒をみていたと
言われる渡瀬恒彦さんはインタビューに答えることは
ありませんでした。

悲しみを押し潰していたのでしょうか。

いまでは、大原麗子さんが暮らした豪邸も
2億5千万円で売却されたようです。

大原麗子さんの思い出の品はなくなったとしても
記憶に残る女優だということには変わりませんね。

『シンソウ坂上』で30年来の親友、
朝丘ルリ子さんが何を語るのか必見です。

最後までお読みいただき有難うございます。



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