死因脳内出血で孤独死、弟の発見も3日後!晩年はギランバレー症候群で仕事干され貧困だった?
『すこし愛して、ながーく愛して』の艶っぽいかわいい
女優として人気を博した大原麗子さん。
孤独死を遂げてからもう10年が経ちます。
記憶に残る女優大原麗子の結婚歴は?
愛した男は、渡瀬恒彦だけだった?
晩年の生活は苦しかった?
若い頃の美人画像の紹介します。
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大原麗子の結婚歴 若い頃美人画像アリ
母子家庭の生い立ち
大原麗子さんは
亡くなってからも記憶に残る女優の一人ですよね。
私は、『男はつらいよ』のマドンナ役で
その独特な魅力とかわいらしい声が
とても好きな女優さんでした。
《第22作 男はつらいよ 噂の寅次郎編》
引用:CHINEMA CLASSICS
《第34作 男はつらいよ 寅次郎真実一路》
引用:CHINEMA CLASSICS
《大原麗子経歴》
名前:大原麗子(おおはら れいこ)
本名:飯塚 麗子
生年月日:1946年11月13日
没年月日:2009年8月3日
享年:62歳
出生地:東京都文京区
学歴:潤徳女子中学校⇒北豊島高等学校卒業
血液型:AB型
職業:女優
ジャンル:映画・テレビドラマ・演劇
活動期間:1964年 – 2009年
結婚歴:渡瀬恒彦(1973年 – 1978年)
森進一(1980年 – 1984年)引用:Wikipedia
大原麗子さんは、老舗和菓子屋「田月堂」を経営する家に
東京都文京区で誕生。
3歳年下の弟が一人おり、弟政光さんは、銀行員を辞め
晩年の大原麗子さんをマネージャーに転職し
懸命に支えました。
幼い頃から父から暴力をふるわれ、
父親を嫌悪するようになっていきました。
また殴られた痕は、鼻の骨の右側がやや盛り上がるほどで
芸能人になって、写真の撮られ方を気にするほどだったようですs。
父親の暴力に加え、浮気が原因で
大原麗子さんが小学校2年生の時に
両親が離婚。
大原麗子さんは母方、
弟は父方に引き取られました。
母子家庭となった生活は決して裕福ではなかったようですが
バレエ教室に通わせてくれるなど大変優しかったようです。
そんな母親、俊子さんに恩返しをして楽をさせたかった
と語っています。
引用:MANTANWEB
18歳でスカウトをきっかけに芸能界入り。
抜群のルックスですぐに有名になると思っていましたが
デビュー直後は端役を演じることが多かったようです。
25歳で所属事務所を東映から
渡辺プロダクションに移籍。
映画からテレビドラマを中心に活動の舞台を変えたことで
「しっとりとした日本的美人像」を強烈に印象づけ
たちまち人気女優の仲間入りとなりました。
『春日局』は大河ドラマ歴代3位となる平均視聴率32.4%を記録し
この印象が強いファンも多いと思います。
最初の結婚は渡瀬恒彦
大原麗子さんの好きなタイプは
毅然としている人、強い人、繊細な人
そして、おとなしい人なんだそうです。
最初の結婚は、渡瀬恒彦さんで、27歳の時でした。
引用:NAVERまとめ
お二人の間には子供も身ごもったようですが
子宮外妊娠で胎児が亡くなったようです。
緊急手術を行い、その際渡瀬恒彦さんから輸血も受けています。
そのことを晩年の大原麗子さんは
『渡瀬さんの血が流れているの、嬉しい』
と話したようです。
渡瀬恒彦が大原麗子と結婚した頃(1973年)の写真がとても眩しくて美しくて大好きなんだ pic.twitter.com/JUMySyhi0o
— 池乃こいし (@369doughnut) 2017年3月16日
引用:Twitter
渡瀬恒彦さんとの結婚はわずか5年でしたが
もしかしたら、この妊娠のことで悩み
離婚を決意したのかもしれません。
離婚理由は語られていません。
また、渡瀬恒彦さんは、その後一般人女性と再婚しています。
森進一との離婚の際には名言『男がふたり』
渡瀬恒彦さんとの離婚から2年後、
34歳のときに歌手の森進一さんと結婚しています。
引用:http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/images/ooreiko.jpg
(引用:Yahoo!コメント)
二度目の結婚生活も約4年間と短期間でした。
森進一も渡瀬恒彦も葬儀に来ていたけど、子供を欲しかった森進一が離婚せざるを得なかったのは、当時大原の仕事に対する意欲が物凄くて、家庭に男が二人だったこと、離婚理由として大原自身がそう言っていたのを覚えている。
渡瀬恒彦に求めた父性
離婚会見を開いた大原麗子さんは、
森進一さんとの離婚理由について
「家庭に男が2人いた」と話しています。
大原麗子さんは、ご自身の性格を
・躁鬱的な性格をしていて、躁状態になるとよく喋る
・物事を決めると行動するのがとても早い
・短所は気が短い
と分析しており、歌手と女優と
活躍するフィールドは違うものの
有名人のお二人なだけに、
勝気な部分が衝突してしまったのかもしれませんね。
大原麗子さんは2度の結婚をしていますが、
晩年は独身を貫きました。
離婚で苗字を戻す際に、出生名の『大原』を
選択せずに『飯塚』姓を選んだことはよく知られています。
暴力的だった父親の苗字に戻すことが
どうしても嫌で、母親の旧姓である『飯塚』姓を
晩年は名乗ったようです。
幼少期に甘えたくても側にいなかった父親を求めて
恋愛対象になる男性には父親像を求めていたようです。
渡瀬恒彦さんには、そんな父性を感じており、
また別れてもなお、渡瀬恒彦さんも大原麗子さんが
心配だったのでしょう。
一般人女性とその後再婚していますが、
大原麗子さんの生活の面倒を
再婚した奥さんとみていたと言われています。
渡瀬恒彦さんも残念ながら2017年3月14日に
胆嚢癌による多臓器不全のため
東京都内の病院で永眠しています。72歳でした。
渡瀬恒彦さんが亡くなったことよりも、「え?渡哲也の弟だったの?」「え?大原麗子と結婚していたの?」「えーと、大原麗子って誰だっけ?」みたいな反応の多さに、昭和は遠くなりにけりと諸行無常を感じざるを得ない、そんな朝……。 …
— トレンドまとめ (@trendmatometate) 2017年3月16日
引用:Twitter
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晩年の貧窮と孤独死?
ギランバレー症候群と再発と整形失敗で仕事激減
大原麗子さんは29歳の時に
ギラン・バレー症候群を発症します。
《ギランバレー症候群とは?》
【概要】:ギラン・バレー症候群は、感染症やワクチン接種などをきっかけにして発症する神経疾患のひとつです。原因となるきっかけからおよそ1〜3週間後に、足に力が入りにくくなったり、しびれたりするなどの神経症状が現れます。症状を自覚する部位は下肢(足)に留まることなく、手や顔面、呼吸機能などにも影響が及ぶことがあります。
その結果、階段を上りにくい、食べ物を飲み込みにくい、呼吸が苦しいなどの症状を覚えることがあり、人工呼吸管理が必要になることもあります。
ギラン・バレー症候群は人口10万人あたり年間1〜2人ほどの発症数であると報告されており、年齢に関係なく発症します。
引用:メディカルノート
日本でも多くの有名人がギランバレー症候群ではないかと
言われています。
・芳根京子さん(中学生のとき、1年後に完治)
・安岡力也さん(58歳の時)
ギランバレー症候群は、再発はないと言われていますが
大原麗子さんは2度発症したと言われていますが
二度目は、思い込みだったのでは?という声もあります。
故人ですので、真相は分かりませんね。
再発したといわれるのは、53歳の時。
約1年間芸能活動を休止していますが、
信頼していた主治医がこの間に亡くなったようです。
そのことで、大原麗子さんはうつの症状に悩むようになったのです。
また同じころ、整形手術も受けています。
大原麗子さんは、綺麗な二重のイメージが強いですが
左目は一重なんだそうです。
それまでは化粧で一重を二重にカバー出来ていたようですが
左右、目の印象が異なることをずっと気にしていたので
この療養中に目の整形手術を受けることを決意。
しかし、いわゆる『やぶ医者』にかかったため
手術は失敗し、まぶたが腫れ上がってしまうのです。
この整形失敗が影響し、
主演が決まっていた映画『天城越え』(第二弾)を降板。
そのショックと、ギランバレー症候群とうつの症状。
次第に自宅に引きこもる生活を送るようになっていったようです。
晩年の貧窮と孤独死?
また同時期に、大好きだった母親が高齢、
心臓弁膜症とリウマチを併発して車椅子生活のため
介護を必要とするようになり、
自身の体調の変化(乳がんも経験)と同時に
介護もしなければならず、
表舞台に登場することは極端に少なくなりました。
女優として演じる喜びは常に持ち続け、
2008年末には知人に
「しっかり病気を治して、容姿も心も完全に女優に変身して復帰したい。いえ、必ず復帰するわ。そうね復帰はどんな形がいいかしら。やっぱりテレビドラマよね。山田太一先生が脚本を書いてくれると嬉しいんだけどな。それまでは、たとえ目の前に1億円積まれてもお断り。だって大切なファンを裏切ってしまうことになるでしょうから」
と復帰の強い意志を吐露しています。
このようなエピソードを聞くと、
仕事への強い希望と共に、
その一方でうつの症状の時は、頑なに心を閉ざしていたのでは?と
想像してしまいます。
当時、大原麗子さんは、世田谷区の閑静な住宅街の
約150坪の土地に、延べ床面積260平方メートルの南欧風2階建ての家に住んでいました。
一人で住むのは寂しいとこの家の売却を考えていたようです。
晩年の大原麗子さんはこの家に23年間住んでいました。
しかし、亡くなったのもこの家の中で
死因は不整脈による脳内出血で死後3日後に
実弟の大原政光さんに発見されています。
亡くなったのは8月3日。
冷房ナシの部屋で、死亡推定日から3日から経っているのに
不思議に腐敗臭はしなかったようです。
晩年の大原麗子さんを心身ともに支えようと
弟の政光さんは、当時勤めていた銀行を辞め、
マネージャーとして全身でサポートしていました。
療養中のため、仕事での送迎もなかったでしょうし
体調回復に努めてもらいたいと
過度な連絡も遠慮していたのではないでしょうか。
そんな矢先に、最愛の姉が豪邸内で孤独死をしていたなんて
弟政光さんはお辛かったでしょうね。
晩年の大原麗子さんは度重なる自身の病気と
母親の看病に加え、仕事が激変したことで
生活は苦しかったようです。
コレクションだった高価な絵画や骨とう品は全て換金し、
更に年金の受給を『繰り上げ受給』申請もしましたが
サラリーマンではない大原麗子さんは年金が少ないと
弁護士を伴い、社会保険事務所に抗議に行ったとも
報じられました。
倒れていた大原麗子さんは、手を携帯電話の方に
伸ばした状態で発見されたようです。
誰に電話をかけようとしたのか分かりませんが
その電話が倒れる前に繋がっていれば、、と
悔やまれますね。
葬儀には、元夫二人も列席したようです。
孤独死を遂げた、大原麗子さんの生活の面倒をみていたと
言われる渡瀬恒彦さんはインタビューに答えることは
ありませんでした。
悲しみを押し潰していたのでしょうか。
いまでは、大原麗子さんが暮らした豪邸も
2億5千万円で売却されたようです。
大原麗子さんの思い出の品はなくなったとしても
記憶に残る女優だということには変わりませんね。
『シンソウ坂上』で30年来の親友、
朝丘ルリ子さんが何を語るのか必見です。
最後までお読みいただき有難うございます。
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